「煙草が美味い」とは

果たして、煙草とは如何なる理由で吸っているのか。最近分からない時が多々ある。


ゴールデンウィークにぶち込まれ、無駄に長い9連休がもうすぐ終わるワケだが、日がな一日を居室で過ごして、やることと言えばスマホをいじくり倒すか、テレビを見るか、本を読むか、シコって寝るか、と自堕落な奔放者の休日を貪ったのだった。


しかし、そのどれもに付随するのが、煙草である。

スマホを片手に煙草は吸うし、テレビも本も、シコって煙草も、どれも当たり前のように生活の一部として、煙草を吸っている。
んで、吸っていて、なぜ煙草を今吸わなければならないのか、とふと思った。

「なら、いっそヤメてまえ」と思われるかもしれないが、その思考は皆無で、「吸いたい」と思えば「吸う」のである。


だが、この煙草、実際に「吸って良かった、マジ最高」と思う瞬間が少ない。
せいぜい、日常においては、メシで満腹の時か、寝起きの一服か、長時間の労働後等、なにかに達した瞬間のゴールテープの様な存在として、煙草を吸うときは確かに美味い、というか先述のように、本当にゴールテープの代わりなのかもしれない。
自分なんかは、メシの後に煙草を吸うことで、やっとメシが終わる意味を持つし、「遠足は帰るまでが云々」の言い回しのソレみたいなもんである。



だったら、メシと寝起きと仕事以外で吸うな、となるのか、と言われると、それもならない。
やはり吸う。不味い煙草を、スマホを片手に、テレビを見ながら、シコった後に、吸う。美味くはない。

やはり、これはニコチン中毒なる依存症なのか、と思われるかもしれないが、実のところ、そうではない。あるいは、そうである。


一つ気付いたのは、煙草が美味い瞬間というのは、何かしら満たされた状態で吸う事で、煙草の明確な意味が浮上する傾向にある。
おそらく、これらの研究は学者や世界的な煙草おじさん達が腐る程掘り起こしてると思うので、詳しくはそれ等についての本を見ればいい。

自分の見解は、「煙草が美味くなる」という自意識からくる予感と、「煙草が吸える」という規制からの開放が、煙草を美味くさせている(美味いと無理矢理に思わせている)と思う。
冷静に考えれば、「当たり前のこと言うなハゲ」と言われるかもしれないが、このゴールデンウィークでハゲ上がる程煙草を吸った自分にとっては、今一度考えさせられる煙草との過ごし方でもあった。


あと、一番言いたかったのは、本当に煙草が美味い瞬間は「歯磨きの後」である。


この矛盾と背徳感については、また暫く考えておこう、と思うが、ここまでの話はどうでもよくて、不味い煙草にまた手が伸びるワケである。



以下略。

グズでもアホでも下手でも読め! その①『町でいちばんの美女』

始まりました。
「グズでもアホでも下手でも読め!」のコーナーです。
タイトルは一人ごっつからパクってますが、そんなことはどうでもいいですね。


最近、関東に転居致しまして、以前なら車で通勤していたのですが、今はバスや電車のお世話になる日々です。

そんな通勤途中の無駄な時間の合間にオススメの本がコチラ。


『町でいちばんの美女』 
著 チャールズ・ブコウスキー




この本は短編集です。
それも、超短編の部類になるのでしょうか。
大体400Pあるんですけど、一つの作品が10P程度で、読むのが遅くても15分ほどで一作は読めちゃいます。
なので、通勤等の暇な時間には最適なんですね。
僕も読むのが遅くて、例えばエッセイとかだと、割と長いことウダウダ書いてたり、中途半端な箇所で目的地に到着してしまったりと、案外読み進めるのが難しいと思うんです。 それに、エッセイって、割と面白いの多いじゃないですか。通勤の電車で笑いを堪えるのもしんどいし、どうせなら「がはは」と笑いながら読みたい時もありますよね。
なので、エッセイではなく、手頃な短編を探していたのですが、そんなときに見つけたのが『町でいちばんの美女』です。


肝心の内容ですが、とにかく汚いです。 今ざっとページを開いても「射精」「勃起」「おまんこ」「死体」etc.の言葉が縦横無尽に並んでいます。
そんなクソまみれの内容を朝の通勤に読めるなんて最高ですよね。 あとランダムに開いても大体汚い言葉があるのって凄いですよね。


しかし、その汚い言葉の裏腹に隠れたストーリーは、悲しくて切ない気持ちになるのもあります。

表題でもある『町でいちばんの美女』は、男と女の話です。
綺麗な容姿の女と醜い容姿の男が惹かれ合うのですが、二人の想いは同じでも、一緒にはなれない運命には逆らえません。 そんな中でも、二人の時間を共有し、ときに傷付け合い、そしてまた出会い、二人は互いの存在を認め合う、というのが大体のあらすじ ですが、結末は悲しく切ないのです。


チャールズ・ブコウスキーは決して気取らず、ある種の矛盾ではありますが、とても真面目に汚い言葉を読者に浴びせかけてきます。
しかし、その真面目さは、読んでいるうちに、その他の不真面目な真面目を気取った作家よりも、僕は心に響く気がしました。

ここでいう心に響く、というのは「あぁ、感動した」とかではなく、「あぁ、クソを見た」という一種の倦怠感にあります。 感動する世界が全てではないのですが、その裏側にあるクソの世界というのは、あまり感動的ではありません。
当然ながら、クソなので、世間一般での「感動」とはワケが違います。 この本における「感動」とは、クソの自分がブコウスキーにクソをぶっ掛けられる、ある種の精神的スカトロジーにあるのではないか、と僕は思いました。

この超短編のほとんどは、「酒とセックスとクソみたいな人間」で成り立ってます。
「酒とセックス」なんて、割とありふれてるテーマではあるのですが、ブコウスキーはそこだけでは終わりません。 そのクソみたいな世界に、ほんの少しの、極々僅かの愛情とユーモアで、作品を書き上げています。
「結局世間はクソだ」と言いたい人間はこの世のなかにどれだけいることでしょうか。僕もその一人なワケです。 そんな人間にとって、ブコウスキーの本は一つのバイブルになるのかもしれませんね。
もちろん、クソとは無縁の幸せキラキラ人間には、何一つ読んでも響くものがないかもしれません。 なんせ、書いてる内容はホント汚いです。なので、クソのクソの為の作家として、ブコウスキーは一人数えられる、稀有な作家だと思っています。

一つ難点は、ブコウスキーの本ってあまり書店に無いんですよね。 道路に書店があれば立ち寄ってしまうのですが、これまで立ち寄った書店のなかでも、1・2件しかなかったです。 都会の大きな書店にはあるのでしょうが、地方住まいのクソ人間からすると、なかなか読めない、そんな部分が難点ですね。 あ、もちろんアマゾンや楽天にはありますので、ネットで買うしかない人は、是非。



というわけで、第一回から図らずとも「グズでもアホでも下手でも読め!」という言葉が当てはまる本になってしまいました。
冒頭に述べたように、いま関東に転居して一ヶ月弱なんですけど、その時に持ってきた本の一つが『町でいちばんの美女』でした。 なので、サクッと紹介してみました。

次はクソに薦める本ではなく、大多数に薦める本を紹介しよう、と思っています。 いや、紹介というか、感想になるのでしょうか。その中間として。
悪文、お粗末様ですが、暇潰しの手前よろしくお願いします。

聞こえた悪口が当たっていた場合の善悪とは

「訳のわからないことで悩んでいるうちに老いぼれてしまうから」
と、森進一が襟裳岬で歌っているように、訳のわからないことは、訳のわからないままにしておきたいのだが、人間というのは訳のわからない事を嫌う質の悪いところがあって、全て投げ出して訳のわからないことをしたい、と思っていても、いざ訳のわからないことをしているうちに、その答えがやがて見えてくる、もしくは答えが予測できるので、やはり訳のわからないことはあまり好ましくない、と常々感じながら生きている訳のわからない生物でもある。

ここ最近、僕自身に訳のわからない事が立て続けに起きていて、それは転職したり、引っ越したりしたからというのもあるが、一番は人間関係で訳のわからないことが起こっている。

これまで人間関係において、あまり干渉したくない僕は、なるべく集まりには加わらず、過度なコミュニケーションをとることもなく、かと言ってニヒルを気取ってるわけでもない、要するにそこらにいるような、中庸的人間であって、正直そいつが居ても居なくても何とかなる、そんな人間の一人だと、謎の自負があった。

しかし、ここ2週間。新しい職場で、アレコレと段取りしていると、自ずと職場の人間関係が見えてきたりする。
「あぁ、あの人はあの人とああいう感じかぁ」とか「えぇ、実はこの人あの人嫌いなんやぁ」とか、まぁどこの職場でもよくある、ウンザリする光景がやはりというかまたかというか、この職場にもあった。
へいへい、そうでっか。と、やりくりちちくりマンボしながら、日々の業務を学びながら、真面目にしていたのだが、つい先日、耳を疑い、もう一度耳を疑ったことがあった。

僕が業務中だったのだが、少し離れた場所で、先輩社員(どちらも男)が2人きりで、何やら話し込んでいるのが分かった。
僕は直属の別の上司に業務についてのアレコレを色々と話し込みながら、セコセコと働いていたわけである。
僕は右耳の聴力が少し弱いのだが、そのせいか、左の耳だけはやたらとよく聞こえる変な体質があって、左側に居た上司2人の話している内容は、ボソボソとであるが、聴こえてくるものである。
ただ、僕は直属の上司の人と業務内容についてのやり取りをしていたので、向こうの先輩社員から見れば、働いているしこの距離で聞こえるわけがない、と思っていたのだろう。
そして、聞こえた内容は


A先輩「つかさ、どうよあの子(僕のこと)」
B先輩「あー、まぁ真面目かな」
A先輩「使い物になるのー?」
B先輩「ビミョー!てか、マジで根暗!」
A先輩「あーね、そんな感じだね」
A・B先輩「ケラケラケラケラw」


直属の上司の人の話も頭に入らず、自分の悪口に聞き入ってしまったのである。
ここで、何が言いたいかと言うと、クソが!とか、お前ら死ね!とか、こんな会社嫌だ!とかではなく、聞こえた悪口が当たっている場合は善か悪か、ということである。

まず初めに、真面目で根暗で使い物にはならないのは、全面的に認める。すごく賛成する。
しかし、本来悪口というのは、気分が悪いものである。悪口を聞いて喜ぶようなマゾヒスティックな思考の持ち主はあまりいない。
ただ、今回に関しては全ての悪口が当たっているので、これは悪口になるのだろうか。
僕個人は、これを聞いた瞬間、ちょっとたじろいだ後、暫く考えて「当たってるやんけ!」と自問自答が2秒で済まされたわけで、先輩社員2人は全て事実を事実のまま話合っていただけである。
これが僕の合理化であるなら、僕は全て合理化によって生きていると思われるだろうが、そうでもない。コンプレックスも当然あるし、精神的にも強いとは言えない。
でも、今回の悪口に関しては当たっている、としか言えず、この当たっている悪口を踏まえると、聞こえずして聞こえた当たっている悪口は、もしかすると最も善に近い行為なのかもしれない、と思ったのである。
つまるところ、本音。歯に衣着せぬ事実上の事実をありのままに打ち明ける、最高の機会になるのではないか。



と、2日前に考えていたが、今日改めて先輩社員の人と喋ると別段悪い気は全くしないし、向こうもコチラに対して親身になってくれている。


あの悪口は結局善なのか悪なのか。
一つの真理が見えそうだったが、疲れたので、考えるのをやめた。
訳のわからないことで悩んでいるうちに訳のわからないことが訳のわからないことになっていくような。

なぜだろう。暑い日が待ち遠しい。

ざわざわ・・・ざわわ・・・ざわわ・・・

某日、午後6時に待ち合わせをして、とある飯屋に行こうとしていた。

久しぶりに会う友人で、彼女が出来たらしい。それも年下の若い子だった。

数人で飯を喰うというので、寝間着から着替えて、時刻よりも早めに到着し、ボーッと待っていた。

定刻になり、友人がチラホラ集まり始め、少しばかり世間話をしている最中に、一人の友人の顔を見ると、どうしたワケか、鼻毛が出ている。

これは言うべきか、言わざるべきか、それとも他の友人に気付いてもらうべきか。

僕のような人間は、人様の鼻毛を指摘することも出来ず、ただただ鼻毛を眺めることしかできなかった。

数分ほど苦虫を噛み潰しながら熟考していると、名案が思い浮かんだ。

 

それは、めちゃくちゃ挨拶をするという名案だった。

それも、唐突に鼻毛が出ている友人に向かって、挨拶の連打。

なおかつ、鼻毛に対して挨拶。友人の目は一切見ずに、鼻毛に挨拶をするという名案だった。

「おはようございます!おはようございます!」

ペコペコとお辞儀をして、その鼻毛に挨拶を繰り返していると、友人は一瞬顔が硬直したが、暫くすると「おはよう」と一言述べ、笑い始めた。

良かった。万事休した。と、お辞儀から振りかぶり、友人の顔を見ると、鼻毛はまだそこにそよいでいた。ざわざわ・・・ざわわ・・・ざわわ・・・ざわざわ。

福本伸行のフォントでさとうきび畑の唄が頭の中に流れる。鼻毛は一向に顔を隠す気配はない。

何より、鼻毛に挨拶をした自分自身を恥じた。まさか、人生において鼻毛に挨拶をすることがあると思うだろうか。

苦肉の策だった鼻毛への挨拶も暗礁に乗り上げ、鼻毛は未だそこに確固たる意思をもって存在していた。

 

もう為す術がない、と思った。

唐突に鼻毛が出ていない友人の一人が僕の顔を見て、一言「鼻毛が出ている」と言った。

馬鹿野郎。鼻毛が出ているのは僕ではなく、もう一人のコイツだろう、と鼻毛が出ている友人を見るとギャハギャハ笑い、こちらを指差して「鼻毛ウケる」とのたうち回っていた。

ふざけている。そんなわけがない。腹が立ったので、待ち合わせたお店のトイレへ行き、鏡で鼻を確認すると、鼻毛が出ていた。

青天の霹靂。愕然とした僕は、両膝から崩れ落ち、さとうきび畑の唄が繰り返し頭の中で流れ始めた。ざわざわ・・・ざわわ・・・ざわわ・・・ざわざわ・・・。

クソ。と、立ち上がり、鏡で確認した鼻毛を抜き取り、涙目を堪えながら友人たちの元へ戻った。

僕だけじゃない、そこには確かに鼻毛が出ている友人もいるはずだった。

開口一番に言ってやった。「鼻毛はお前も出ている」と。

そして、友人の顔を確認すると、あろうことか鼻毛は出ておらず。キョトンとした顔で僕を見つめ、しばらくすると、目を見開きギャハギャハと笑い始めた。

「鼻毛はお前だけだ!ギャハギャハ!俺のカッターで鼻毛切る?ハナゲカッター!二枚刃!ギャハギャハ」

くそつまらないギャグも見舞わせれ、また両膝から崩れ落ちそうになった時、友人の彼女がそこに到着した。

 

小さな彼女だった。仕事帰りか、OLの服装で、カーディガンを羽織り、長財布とピンクのタバコケースを持っていた。

可愛い彼女だったので、こんな可愛い子の前で鼻毛を出さずに済んだのは良かったと思う。

 

鼻毛が出ていたら、自分も出ていると思え。一つの教訓が生まれた日だった。

 

 

ゼニの効用力について

昔、とある本を読んでハッとして、グッときたことがあった。

当時、22歳の僕は、全く以てカネがなかった。いや、一文無しだったわけではない、当然。

一人暮らしをしている最中だったわけだが、とにかくカネがなかった、何故か、それは永遠に分からない。

金がないのだから、金がない理由を考える必要はないのだ、金が無いのだから。

そんな日々を送りながら、日雇いのアルバイトを朝の5時から夜の8時までこなして、日当の9600円を薄く薄く、金箔のように伸ばして遣っていた。

なので、カネがないので、自然と外にも出ない、家に引き篭もって日がな一日惰眠を貪り、起きては読書をして、半額のチキン南蛮風のアレを喰ったりしていた。

で、一つ読んだ本に書いてあったことが、「現金なんてのは、日本銀行券なんだよ、分かる?銀行券、切符だよ、切符。無理やり働いて、切符貰ってどうすんの、てか、切符なんかなくても生きられるよね?紙くずだよ、財布に入ってるそれ、燃やしてもいいよ、オイラ燃やしちゃうよ、ファイア。」

と、書いていた。その著者がyoutubeで演説してる動画あったので、実際に見たらお札をビリビリ破いてヘラヘラしていた。

それを見たときに、ハッとしてグッときてガッテンを10回ぐらい押して、早速財布に入っていた一枚の千円札を燃やしてみようとした。

台所に向かい、左手に千円札、右手にライターを持って着火し、千円札に近づけたところで、フッとした瞬間に、自分には左手の千円札がどうしても必要に思えてきた。

危ない。わけもわからず、千円札を塵にしてしまうところだった、やはりカネは必要だ。変な思考になってしまった。変な思考を扱うには知恵がいる、今の僕は知恵がないので、ただ無駄に千円札を燃やしたキチガイにしかなり得ない。ヤバい。

 

 

そんなことがあって、数年後、またしてもカネがない。

仕事をすれば、少なからずカネがあるはずなのだが、仕事をしていたつもりが、仕事がなくなってしまった。

どうしよう。やはり、カネがない。この感覚、あのときと同じだ。

しかし、数年間たって自分は、それなりに知恵を蓄えて、それなりに生活をしてきたつもりである。少なからず何らかの知恵を付けているはずだ。

思い立ったが吉日、左手に千円札を、右手にライターを着火し、ゆっくりと近付けたところで、フッとした瞬間に、自分には左手の千円札がめちゃくちゃ大事なものだと気付いた。

馬鹿野郎。車検もあるし、年金国保生保、携帯代にネット料金、馬鹿野郎。住民税が何十万と降り掛かってくる。

大馬鹿者だった。知恵を付けたつもりが、やはり知恵が足らなかった。

左手の千円札が大事だった。お金という概念がなくなれば、幾分かラクになると思ったが、やはり必要だった。目から鱗だった。

やはり、カネは必要不可欠である。カネがない僕が言っても、乞食の遠吠えになるが、カネがあれば、もう少し知恵が付いていたのかもしれない。

 

 

 

 


Happy End - 加川良, - ゼニの効用力について

人間椅子を中に入るか外から座るか

12時間ずっと座り続けると、やはりというか当然ながら、身体の節々が重く、至るところの血の巡りが頗る悪いことが身を以てしてよく分かる。

というのも、気付くと片田舎から反面、大都会に赴いたからであって、電車ならぬ汽車を乗り継ぎ、夜行バスに乗車し、挙げ句、ストレスフルでエコノミー症候群をにわかに発症したからである。

おそらく、私は人一倍、エコノミー症候群(正式にはエコノミークラス症候群だよ)に対してモロッモロの虚弱体型に当てはまる。痩せてるし、無駄に木偶の坊で、節々が鋭利になり、この体型から「丸み」という部位を探すのであれば、それは金玉袋の只の一つに限られる。

要は、丸い箱に少し大きい三角のカタチを無理矢理はめ込むようなもので、とても辛いし、何より動くことが限られる上に、それを放棄して睡眠に逃げ込むことすら許されないとんでもなく悪質な体型になってしまっている。

唯一の救い、すらない。とても憂鬱な、時間である。考えてみれば、12時間、半日も同じ姿勢を取り続けることが、如何に恐ろしいことか。ドMでも、女王様の12時間拘束指示に従うことはないだろう。何故なら、12時間という時間はプレイの範疇を大幅に超え、一つの理性を生み出すには充分過ぎる程のアドバンテージが与えられるからだ。

話が意味不明になってきた。それもそうだと思う。身体中の血液が上手く巡回せずに、脳みそがひどく傷み始めている。これは、大病の兆し。美人薄命であるならば、私は永遠の命を手に入れたつもりだったが、誰に殺される間もなく、一脚の椅子に殺される宿命とは。脳髄のクーデターが鳴り止まない。

マヂ病むもぅムリ

「マヂ病む」とか言える精神のうちは、言葉とは裏腹に大丈夫な場合が多々で、ほんまに「マヂ病む」という時に限って、妙に能天気か、もしくは何の音沙汰なく白目をひん剥いてヨダレをぶら下げてたりする。
今の僕はその前者から後者になりつつあって、気付くと白目を剥いて現実逃避をしながら、口角からヨダレを垂れ流し、座椅子に座ってはリクライニングにして、また座椅子に戻してはリクライニングにするという苦行の日々を送っている。これが永久機関の自家発電システムになるのなら、一ヶ月先までは電力を賄えるはずなのだが、おそらく無理難題で、電気の知識もなければ、永久機関になる見込みもない。悲しい。
なので、必死に能天気を気取る、というか演じる方が正しいのだけれど、とかく日の出から日の入りまでヨダレを垂れ流して太陽を見守るよりかは、朝からパリピになって爆音EDMを深夜まで鳴り喚かした方が、人間としては全うな気もする。
しかし、そのパワーが僅かばかりしか残ってないので、現時点では座椅子をリクライニングにして囚人のように真っ直ぐ、棒の様に寝ている。
もう少しすればクソデカサングラスを掛けて、半裸になり踊り狂えるはずなのだが、その時はその時で、ヨダレを垂れ流してた方がやっぱ良かったんじゃね、と思うだろうから、結局未だに白目でヨダレを垂らして、無音の「マヂ病む」を心の中でちちくるしかない。
なにより、ブログを書き始めることが、一つは「マヂ病む」ことの証明にもなるフシがあるだろう。
よろしく。